高齢独身女子の生態(前編)

10年前くらいの私は厄年を過ぎた独身女性という生き物を明らかに哀れみの眼で見下げていた。
もちろんパンツスーツを颯爽と着こなし、虎ノ門辺りを闊歩するバリバリの外資系キャリアとかいう存在のことではない。
そういう女性はあまりにも雲の上の存在で、全く違う人種だと思っていた。


そうではなくて、当時私が働いていたようなごく保守的な職場で、これといった特技も無く、もちろん美しくも無く、明らかに「嫁き遅れた」女性が、日常をどんな風に感じながら生きているのか、あまりにも幼稚な文化に染まっていた私には全く想像がつかなかったのだ。


職場の「派遣社員はセクハラを含めた雇用契約」だと思ってるみたいな既婚男性達は、当時同じ職場にいた34歳くらいの女性のことを完全に性的対象から外していた。
私達は彼女のことを完全に上から目線の哀れみと、軽蔑と、少しの恐れと不安をもって、遠巻きに見ていた。


私達はまだ20代から30歳になるかならないかくらいで、だからちやほやされる理由が「若さ」というただその一点にしかないことは十分自覚していたから、年をとることは恐怖でしかなかった。
もっと当時の私の中で本当に「チヤホヤ」と「男性の性的気晴らし」の区別がついていたかは微妙なとこだ。


ただ、だからといって、じゃあ今のうちに結婚を・・・とはどうしてもなれなかった。
結婚するには私の生活は自由すぎたし私はひとりでいることに慣れすぎた。
何よりも私は私のことが好き過ぎて、同時に嫌い過ぎた。
(当然ながら、そんな私に結婚してくださいと跪いてくれる人もいなかった。)


その頃何度か実家の親からお見合いを勧められて、断るたびに口論になった。
電話を切ってどれほど泣き晴らしたか、何度口論の長いメールをやりとりしたか。
今となっては親の焦りは手に取るように理解できるけど、当時の私には現実感を持って感じる焦りではなかった。
すぐ側にある少子化ニッポンの危機なのに、誰一人自分の問題だとはリアルに想像できない状況とまるっきり同じだ。


今はあの頃「蚊帳の外」だった彼女の気持ちがとてもよく分かる。
彼女は惨めでもないし、同情される存在でもなかった。
何故なら彼女は私達を「羨ましい」とは微塵も思ってなかったはずだからだ。
彼女は、私達をチヤホヤする男達を完全に軽蔑の眼で見下げていただろうし、むしろそうした面倒くさいことから解放されてラクチンだなぁって喜んでたかもしれない。
何しろ職場の慰安婦(当時は「喜び組」と呼んでいた)という面倒な役割を若い子に堂々と正当な理由でもって押し付けることが出来るのだ。(現に今の私がそうしている。)


そして何よりも、彼女はそうなることを知っててそれを選択した結果そこにいただけだ。
そして私も今ここに、過去の選択の結果としているのだけど、それは完全な自己責任だし、そんな選択しか出来なかった自分を愚かだったとは思うけど、その選択を「後悔」することは無い。


オリンピックを目指さなかった人がオリンピックに出られなかったことを「後悔」することが無いように、過去に結婚をしたいと思えなかった人間には結婚しなかったことを「後悔」しようが無いのだ。

(続く・・・予定)