自由であるとは依存しないこと

最近、三十路も後半になるまで独身でいることが、私の成長にとっては必要なプロセスだった(いや、現在形だな)のかもしれない、と思うようになった。


私の両親はこと、金銭面に関しては子供にかなり甘いところがある。
もちろん都会でパラサイトでお父様が上場企業の役員で本人は読モで、みたいなお嬢様たちの足元には一切及ばないが、仮に私が「今月ピンチだからお小遣いちょうだい」といえば、絶対にくれると思うくらいには甘い。


なんであるから、私の中では長いこと主婦願望が強くて、仕事は結婚までの食い扶持を繋ぐ手段、当然旦那が小遣いをくれて、毎年海外旅行に連れて行ってくれて・・・・なんて幻想を抱いていた。


けどこの年になってくると、そういう幻想は本当に幻想だと身に染みるようになる。
第一、私が何よりも失いたくないと思っている自由
(ここでの自由の定義は非常に狭い。つまり金銭的に相手に依存しないとか、自分がやりたいことを相手に引け目を感じたりしないで堂々とやるとか、その程度の自由だ。)
を確保するためには、誰かと暮らすことになってもやっぱり、一生自分一人でも生きていける経済力と心の強さの両方を維持しなければいけない、ということがよーくわかってきたからだ。


正直、私も世間並みに年収○百万以上で〜、というような、男性に対する希望条件みたいなのを持っていた。
(いや、正直言うとまだ完全にそこから自由になってる訳じゃないから、「持っている」と言うべきかもしれない。)
だが、最近つくづく思うのだが、年収がいくらであろうと結局その人が奢ってくれなければ私は自腹を切るしかないのと同様、その人が財布を握っている限りそのお金は私のものではなく彼のものだし、私は理性的な人間なので「夫婦なんだからあなたのものは私のもの、私のものは私のもの(笑)」なんてことはとても言えない。


そう思えるようになったのは、ありていにいえば、三十路になりだんだんと食事を男性に奢られる率が下がってきたからだ(笑)
二十代の女性の多くはあまり自分の財布を開く機会は無いだろうし、開いても出すのは漱石数枚が関の山だ。
だが三十代になると、がっつり半分もっていかれる。
そう、庇護されなければいけない女の子のシーズンはもう終わったのだ(涙)


金銭的な自由だけじゃない。
気持ちの面でも、相手に依存することは相手に期待することと結びつきやすくなる。
期待をすると、それが(勝手に)裏切られたとき、不満に変わる。
不仲の原因の多くは期待と、期待がかなえられないことへの不満だ。
だが、あらゆる問題は結局は、相手じゃなくて自分自身の問題だ。
相手がむしろ自分に依存してくることが問題の根本なら、そんな相手とは別れるしかない。
その時も自分がきちんと自立していれば、精神的なダメージは最小限に食い止められるだろう。


長く一人で生きてきて、この二つを私はそれなりに身につけてきたと思うし、その二つを失わないことの大切さもようやく理解できるようになってきた。
だから負け犬街道をとぼとぼと歩いてきたことも、あながち人生においてマイナスばかりとは限らないのだなと思うようになった。


自分自身にそれを忘れないように、ここに書いておく。