四十歳になったとき、不思議な心境の変化が訪れた。二十代、三十代のときに重くのしかかっていた何かがすっと消えて、気持ちが軽くなったのだ。ハートのあたりが、フランス窓のように大きく開かれた感覚があった。その解放感がどこから来るものなのか、最初はよくわからなかった。が、次第に女であることに対する意識の変化だと気がついた。
 社会や異性の目の中で、その視線を意放しないではいられなかった二十代。社会にうまく適応できない苦しさは、性格が可愛くないとか、からだが大きくてふてぶてしく見えるとか、わかりやすい理由を探してきた。がへもしかしたら、そう自分を悪者にする必要はなかったかもしれない。ただ、適応力が欠けていただけなのだ。そのように生まれついたのだろう。他者とうまくコミュニケーションが取れない。傷つくのが怖い。だれよりも小心者で臆病である。だから、鎧う。そして鐙った防御の衣の上に、社交的で明るい仮面をつける。ひとは、なければないだけ、あるように見せたがるのだ。
 次の三十代は、結婚、出産、異国の暮らし、帰国後に物書きとしてデビューと、めまぐるしい十年間だった。武器用だが自分なりに役割を果たそうと懸命だった。娘の交通事故という、それまでの人生最大の危機も何とか乗り越えた。生涯一編集者として仕事をしたいと思ってきたが、退職したことでそれは果たせず、だが、次の道を切
り開くこともできた。よくやった、そう思ってもいいのではないか?
 若かった自分を認め、ねぎらう気持ちになったとき、「役割」から解放されたような気がした。それはまだ、わずかな解放感でしかなかったが、同時にとても自然な感覚だった。母でも妻でも物音きでもない、ひとりの自由な女としての種が、自分の中にすでに蒔かれ、芽を出そうたしている。
 からだに付随した絶望感が消えたわけではなかったが、異性から嫌われるに違いない、などという若かった頃の屈折した自意識はなくなり、もっと自然体になれそうな気がした。それはまだ、赤ちゃんの手のような小さな若芽にすぎなかったが、もうすぐ堅い殻を突き破ろうと背伸びをしている、新しい自分のように感じられた。

四十歳、解放感がやってきた
感じるからだ|光野桃




私が「四十代」以降の自分に唯一期待することが、この解放感だ。
ギリギリ30代後半の今でも、もうかなり、そういう「楽ちんさ」は感じている。
例えば街を歩いているとき、男性の視線に嘲笑を感じるとか、そういう被害者意識が無くなって、本当に心が軽くなった。
だが某STORYで裸体をさらすような煩悩女子を見てると「それも人によるな・・・」と思うが。
おそらく20代、30代前半に「異性の目」でいい思いをしてきた人は、その甘い汁の味を一生忘れられないのだろう、そしてもう自分がそれに値しない存在だということが、頭ではわかっていても、身体で納得がいかないのだろう。
彼女達が田中みな実みたいな女子OLを横目に「若い子はかわいいわねぇ」という時の、目の底に鈍く光る厳しいものを私は見逃さない。
だから私はあえて相槌を返さない。
だって本当に「可愛」くなどないもの。
20代の女子なんて、もうほんとうに傍若無人で、無知で、強欲なだけだもの。