この記事は出産を経て変化した自分の身体についてが主題なのだが、私はむしろ妊娠と新生児の描写に揺さぶられた。
ちなみに昔の光野桃のエッセイの中に、この結婚の経緯が綴られているのだが、今でも非常に印象に残っている。
20代後半の女子が読むと感じるところがあるんじゃないだろうか。



 三十歳で結婚し、三十一歳で子どもを産んだとき、からだとわたしに、つかの間の平和な時間が訪れた。子どもがお腹にいるときの気分は、なんともいえず不思議なものだった。本能のカというのはすごい。この時斯だけは、からだを痛めつけるようなことをしなかった。タバコは何年も前にやめていた。 つわりが七ヶ月まであり、きつい吐き気に苦しんではいたが、仕事の忙しさも軽減され、周囲のひとたちの目も温かく、怒ったり傷つけられたりすることもなく、穏やかな時が過ぎていった。
 そして時折、お腹から胸に、突き上げてくるような感覚が走った。それは、何かに強く感動したときや、深い喜びに満たされたときにこみ上げてくる感覚と同じ種類のものだった。ひとり散歩をしているときや、ぼーっと外を眺めているときに、それは突然やってくる。突き上げる波が去った後は、胸がきゅーっと切なくなり、そのあとふわあっとゆるんでいくのだ。時間にすれば三秒ほどのことなのに、なんとも言えず気持ちがいい。お腹の子からの信号かな、存在感を示すメッセージかな。そんなふうに思うと、もう自分のからだのコンプレックスなど、どうでもよくなった。ここに宿るもう一人のひとのために、たっぷりとした良き器でありさえすれば、それでいい。

(中略)

 赤ん坊は、まさしくぴかぴかの新しさだった。一点のしみもない肌。つるつるの、小さな小さな桜色の爪。やわらかですこやかな髪。歯が生えてくれば、その白さは宝石のように思えた。娘の頬に頬をこすりつけていると、このすべてをぺろぺろ舐めたい、口で味わいつくしたい、という衝動に駆られた。
 赤ん坊の新しいきれいさは、わたしを動物的な本能の塊にした。新生児とはよく言ったものだ。この世の汚れ、生きることの垢がまったくついていない、まさしく新しいひとである。ひとはだれでも、こんなふうにぴかぴかで生まれてきたのか。
 赤ん坊のからだは、いや、赤ん坊という存在自体、完壁なものだった。神様は人間をパーフェクトに作り上げてこの世に送り出している。なのに、ひとはそれに文句をつける。いじめる。さらう。なんと身勝手なことだろう。進化し、成長するように見えて、ひとは退化の道を辿るのだろうか。それとも、肉体にともなう苦しみを体験することが、生まれてくる意味なのだろうか。

ぴかぴかで生まれてくる
感じるからだ|光野桃




自分はこれと全く同じ事を十代後半の思春期の頃に強く感じていた。
一点の曇りもなく生まれてきて、一日一日とそれを汚していくのだと、こんなにも苦しい人生を別の新しい人間に与えることなど私にはできない、私は子供を産むまいと、その頃強く心に誓った。
だから結婚してないという訳ではないのだけど、出産が結婚の動機にならない(むしろ障害になる)ので、結婚が(ますます)遠くなるというのは間違いなくあるだろう。