追記

期待値が・・・とか言ってた割に、その後ずっと読後感を引きずった週後半。
何か私の解釈は違ってるなというモヤモヤを解消すべく、週末他の人の評を読んでみて、少しだけ整理がついてきましたよ。


まず私が誤解していたことがココに書かれてました。


http://d.hatena.ne.jp/pikao/20100109


「サマー効果」ね。
そっか、そう言われてみたらそうだな。
ちょっと違和感あったんだよね、そもそもあぁいう、メインストリームじゃない女の子に男が列をなすなんて、そんなんアメリカ人らしくない!(笑)って思ったんだよ。


後、ここにも書かれているように、この映画の重要なキーのひとつが映画「卒業」で、「卒業」がちゃんとわかってることがこの映画を解釈する上では欠かせない。
ところが私が「卒業」を観たのははるか昔の学生時代だし、果たしてその頃あの映画をちゃんと理解できたか、おおよそ自信が無かった。


という訳で「500日のサマー 卒業」でググって出てきたのが上記の記事と、コレ。


http://green.ap.teacup.com/nanbaincidents/842.html


この方よりも先の岡氏の方が断然この作品を消化してらっしゃると思うけど、南波氏の書かれてることも面白いと思う。


まぁだからといって、サマーの自分のことが大好きな男と友達関係を続けたがる鈍っぷりを擁護する気にはなれないんだけど。
どうしてそれが相手を好きな側の立場からすると、まさに生き地獄、蛇の生殺し状態だということに気付けないのだろう?
いや、気付いているのよね。それでもその関係を続けようとする。「友達として会えるよね?」なんてメールを送りつけてまで・・・。
それこそが「ビッチ」だって言いたいの。
最初に友達宣言しとけばいいとか、自分に正直とか、そういう問題じゃなくない?!
(大いに私憤入ってます・・・)


そりゃそうと、主人公を演じたジョセフ・ゴードン=レヴィット、「恋のからさわぎ」の男の子だったのね!
いや〜、こんなカワイコちゃんに成長してたなんて!
かなり嬉しかったっす。
彼なしにこの映画は語れないよ。
サマーがカラオケでナンシー・シナトラのSugur Townを「シュシュッシュー」ってカワイく唄うシーンで、トムがそれを見ながらにや〜とするシーンなんざ、もう最高だったですよ。
あのニヤケ顔無しにこの映画は成立しない!
ズーイーとジョセフをキャスティングした時点で、この映画は成功したも同然だった訳。
それにジョセフはビートルズの中でいえばリンゴ顔だしね!