新しいノート

ネタがれであります。


先日、乳飲み子を抱いてきました。
小さくてお豆腐みたいに柔らかくて、日頃氷のように冷たいとオンナと言われる私も、オキシトシンがシューシュー出てました。
いやー、母乳が出るかと思った。


あの子たちが見る世界はどんなだろう。
私が見られない時代を作っていくのだね。
そしてほんの20年もすれば、大人になって、社会人になって、また新しい時代をつくる次の世代を産んでいく。
それが生き物としてのサイクル。
なんのためにあるのかよくわからない再生産システム。


一緒に行った子たちは、私よりハーフデケードくらい若いのだけど、未婚の私が「かわいいかわいい」と騒ぐのをどんな憐れみの気持ちで見てたのかしら(笑)
私がたとえば40代の人を見る目より優しくないことだけは確かだ。
だって自分がそうだったもの。
大抵の人は、「ああなりたい」見本ではなく、「ああなりたくない」見本だ。
私は彼女たちから見たら「ああはなりたくない」見本であるだろうし、「だから頑張らなきゃ」って思って幸せを探してくれるならそれでいいと思っている。
それが年長者のつとめだし、存在意義なんじゃないだろうか。
少しずつ、人との差異を受け入れられるようになるのが、大人になるということであり、成熟だと思っている。
私を見下げる彼女たちの気持ちが私にはとてもよくわかるから、それを責めようとは思わない。
ここまで早くおいで、そしたら、もっともっと人間(の複雑さ)ってものがわかるようになるよ、って思うだけだ。



うまれたばかりの子供は真っ白なノートのようなものだ。
真っ白なノートに最初に書きこむときの緊張を思う。
最初は、少しの字の書き間違いも許せない気がする。
初めの頃は丁寧に丁寧に綴って、そのうちだんだんとどうでも良くなってくる。
真ん中の辺は落書きがあったり、パラパラ漫画があったり、たまにはページを破ったり、大きな字、小さな字、たまにはうまくまとめたり。
そうして最後の方になってくると、もうすっかり薄汚れた表紙も含めて、しっかり手になじんでくる。
汚れたページひとつひとつが、振り返ると懐かしく、大切な思い出になる。
そうして最後の1ページまで大切に使い切る人もいれば、白紙になってしまう人もいるだろう。
最後の1ペーまで。を打って終われる人は幸いだ。


ときに途中で投げ出す人もいるけど、それはもったいないからやめようね。