失われた20年と音楽という文化



長い間押し入れに仕舞い込んだままのCDを整理していると、いろんな思い出が蘇ってくる。
奇しくも今年はロンドンオリンピックがあって、開会式・閉会式はさながらロックイベントの様であった。
彼方の国ではまだロックが、ポップミュージックが、世界に誇る自分たちの文化の中心軸の一つなのだと(それは監督の個性の部分かもしれないが)私に思い出させてくれた。


私がCDというメディアを使わなった時期ははっきりと意識出来る。
それは「Napster」を契約した瞬間からだった。
Napsterが私の音楽生活に及ぼした影響(後遺症)はあまりにも重く、以降私は新譜を聴くことすらほとんど無くなってしまった。


音楽はただ(同然)で手に入る・・・。


それは、誰とでもやる女を彼女にしたいとはあまり思えないのと同様に、音楽の価値を貶めてしまった。


それは「本を買う」という行為に「BOOKOFF」が与えたインパクトの大きさと同じである。

文化は、それに対する金銭的な対価の大きさ故に価値を持つということも、一方ではあり得るのである。
我々がゴッホの絵の前に立つのは、ゴッホの絵が美しいからなのか、それともゴッホの絵が高額だからなのか、この二つを自覚的にわかつだけの教養を本当に持っていると言えるだろうか。


私の手元にある洋楽のCDは、国内版の値段が1枚2500円。
この値段を見て思わず「高っ!」と呟いてしまう。


でも当時の私には2500円の価値があった。
2500円の栄養剤を耳から注入しなければいけないほどに心が弱っていた。
一方で、しかしどう考えても2500円は月に20万円程度で生活する若者の財布には重たい。
だからこそ、それ(ロック)を自分のアイデンティティと置き換えるという無意識の自己防御が働く。
当時の私は「音楽の趣味が合わない人と付き合う」なんて、とても耐えられなかった。
くだらない音楽を聴いてる人間を心の底から馬鹿にしていた。
音楽は文化であり、宗教であり、価値観であり、「私」だった。
だから音楽には2500円の価値があった。


今の音楽が若者たちにとってそれだけの価値を持ちうるのだろうか。
1000円で買えるアルバムにどれほどの尊さを感じられるのだろうか。



それにしても、「東芝EMI」や「CBSソニー」というレコードレーベルを見るにつけ、日本の電機業界がいかに元気であったかよくわかるというもの。
勢いのある産業は文化を生むし、衰退する産業は文化を切り捨てる。(そうして、最後は自身も滅びるのだが。)
改めて20年という歴史を感じてしまう。