引用集



書店でもらえるエッセイやら連載小説やらのミニコミみたいな小冊子、私はあれが結構好きで、わざわざ送料出して1年分定期購読したりしてます。
今日も会社帰りに寄った丸善で手にした冊子の中に酒井順子の連載エッセイを発見。
今更酒井順子でもないだろうとなめてかかって読み始めたら、やばい・・・やっぱり一時代を築いた人をなめたらあかんわ。


それは「下に見る人」という、酒井流の「上から目線の構造」なのでしょうか。残念ながら私の手にとった号が最終回だったのですが、これが素直に面白いのです。
あまりに面白いのでぜひ紹介したいと思って要約しかけたのですが、こりゃ本編を読んでもらった方が早いと思うので以下に一部を転載します。



大人になって平安女流文学を読むようになって、もっとも驚いたこと。
それは、作者逮が「何の際踏もなく、他人を下に見ている」ということなのでした。
平安女流文学の書き手は、貴族階級の女性逮であるわけですが、彼女達はごく普通に、下種(貴族ではない人々のこと)や田舎者のことを、見下している。
たとえば、私が敬愛する清少納言。「枕草子」にはそこここに、下種のことを馬鹿にする文章があります。

(中略)


そんなわけで、彼女はのびのびと「下は下」と書いていたわけですが、しかし彼女が下種を毛嫌いした理由は、わかるのです。
第五十四段には、「ちょっといい感じの若い男が、下種女の名前を気安く呼ぶのって、すごく嫌な感じ。名前を知っていたとしても、『○○・・・』とかって、名前の半分くらい思い出せないような感じで呼ぶのがいいのに」といったことが書いてあるのですが、この部分に、清少納言の下種嫌いの理由が凝縮されているのではないか。
若い貴族の男が、下種女に対して親しげに呼びかける様子におかんむりの、清少納言
彼女は「ちょっといい感じの若い男」は自分の側にいて、下種女は対岸にいると思っています。
が、男は下種女にも気安くする。その時清少納言は、自分の陣地が他者、それも自分が飼い犬程度に思っていた下種女に踏み荒らされたような気持ちになったのでしょう。
その下種女は、おそらく若くて可愛かったのだと思います。
つんと澄ました貴族女性とは違って、いきいきとした魅力もあったことでしょう。
それもまた、彼女のイラつきに拍車をかけている。
たとえば、一流企業で総合職としてパリパリと働いている女性がいたとしましょう。
彼女は、同期入社の男子達のことを、仲間であり同志であると思っています。
同期男子の中には、社内にいるバイト女子を楽しげにからかったりする人もいます。
バイト女子は、頭はよくないけれど、若くて可愛い。
そんなバイト女子に、「じゃ、今度飲みに行くか!」などと言っている同期男子を横目でにらみつつ、総合職女子は苦々しい気持ちになっているはずです。
私を飲みに誘ったことは一度もないのに、バイトなんか誘ってるんじゃねえよ・・・と、顔は平静を装いながらも、内心には煮えたぎるものが。
清少納言の感覚は、これと似ています。
彼女は宮中に仕えるキャリアウーマンとしての衿持を持っていたからこそ、自分と同レベルの男が、下種女にちょっかいを出すのが耐えられない。


(中略)


この連載では今まで、人はどんな時に他人を下に見ようとするのかということを、自分の人生と重ね合わせつつ考えてきました。
思い返してみれば、私は実に様々な局面において他者を下に見てきたし、また他者から下に見られてきたのです。
そしてなぜ人は人を下に見るのかと考えてみると、多くのケースに、清少納言的な心理があてはまるのではないかと思えてくる。
すなわち、世の中をざっくりと上と下に分けるとしたら、その境界線に近いところにいる人ほど、他者を下に見たい、という欲求は強くなるのです。
それは自らのポジションを死守するための自衛手段と言うことができるでしょう。
たとえば下の世界から上の世界へと上がったばかりの新参者は、新参者であるが放に、下の世界を差別します。新興成
金は下々にもわかりやすい形でお金持ちっぷりをアピールしますし、晩婚の人ほど独身の人に対し、「ずっと一人でいいの?結婚って、いいわよーう」といったことを無邪気に言いがち。

(以下略)




酒井順子って、いくつになってもこういう感性を持っていられるところが、才能なんでしょうね。
しかし多分相当生きるのがしんどいタイプだろうなぁ・・・。親近感を覚えます。


女も、不況? (講談社文庫)

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