春なので青春について思い出してみる



久しぶりに学生時代の日記を取り出してみた。
20年も前にもなろうかという話である。

当時、とにかくおしゃれなものに憧れて憧れて死にそうだった。
一方でオシャレとは真逆の自分のルックス。
お金も無かった。
世知も無かった。
見るもの、聞くもの、全てが遠く高いところにあって、自分のいる地上との距離を埋める方法などわかりようもなかった。
多分、そこを飛び越えるには、女の子ならとびぬけた容姿か、そうでなければ才能か、もしくは面の皮の厚さがあれば良かったのだろう。
けどどれも無かった。
あるのは過剰な自意識と自己憐憫だけだった。

大学に入ったら、オシャレピープルが集うようなサークルに入って、下北沢でフリッパーズのライブを観るんだ、なんて思ってたのに、暗く田舎で浪人生をしている間に彼らは解散してしまった。
入学してすぐのサークル見学に行くと、フレンチカジュアルでキメたカッコいい理工学部の男の子がいた。
少し話をしただけで、真っ赤になって目も合わせられない。
彼らの私を見る蔑みの視線(だと勝手に思い込んでいたもの)に耐えられず、二度と行けなかった。
お呼びでない世界。

仕方ないので、ひとりでしこしこ寂しくオシャレな世界をお勉強した。
当時はコラージュなんかが流行ってて、例えばノートPCやらにはいかしたステッカーをぺたぺた貼って、自分がいかにセンスがいいかということを世間にアピールする。
センスが合わないというのは、相手をジャッジするときの一番の基準だった。
今では大笑いだけど、音楽の趣味が合わない人とは絶対に付き合えないと思ってた。
この年になるとわかるが、あれは完全に病気だった。青春症候群。
私はその病を随分長く患った。

ともかく、私は街中を駆けずり回って、レコ屋や古着屋の店頭にあるフライヤーを掻き集めて、それをノートに切り貼りしていた。
今なら同じことをtumblrpinterestでやっていただろう。
それにしてもこの20年の間に、デザインは素人にも容易になり、オシャレは世界中にあふれ、ありふれてしまった。
素材はどこからでも掻き集められる。
そんな中で自分のセンスを差別化するのは途方もなく難しいように思える。
私なら、とても出来そうにもないと端から諦めてしまっただろうか。

もし、あの時の自分にインターネットがあったらどういう青春を送っていたのだろうかと思う。
顔の見えない世界では、私は活き活きと自分を表現していただろう。
だけど交流する人々とは決してリアルで会ったりは出来なかっただろう。
結局は同じようなことを繰り返しただけなのだろうか。
ともかく、あの苦しみはもう二度と味わいたくないことだけは確かだ。