アンデルセンと美醜と自由について

本日は黄金週間スペシャルとしてとってもネガティブな記事を書いちゃうよ!
ご笑納ください。

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いつも楽しみにしているはてなの有名ブロガーおろちょんさんが、先日こんな記事を書かれていた。


「みにくいアヒルの子」にみる「自殺」という選択肢の重要性 − なんでかフラメンコ


おろちょんさんと言えば最近ではあのゴキブリみたいな人とエリカ様の離婚を予言したことでも有名。
母親になられてからは芸風にも幅が出てますます面白い記事を書かれています。
私は大ファンなのでこの記事は決して上記の記事を批判したものではないということを先に書いておきます。


ただ私のネガティブ思考ループのスイッチが入っちゃったんですね、コレ読んで。


この記事の白眉はやはり

みにくいアヒルの子は、今回たまたま白鳥だった、というだけで、幸せをつかんだことになっている。つまり、「美しい=幸せ」という価値観だ。裏を返せば、単に本当にみにくいだけのアヒルだったら、そのまま永遠に幸せになることはなかった、ということである。

という部分。


この物語は子供向けには「どんな子も耐えて実直に生きてれば、良い部分が花開いて幸せになれる」という教育的読み方がされると思うのですね。


例えば小学生の時小太りで背が低くかった男の子が、中学3年生の夏休みに突然ぐんぐん伸びて細くなって、二学期に入ると「あいつ誰?」状態になったりしますよね。
個性入ってるモデルさんとかだと、子供のころはただのヒョロ長で、全然「かわいい」の対象じゃなかったり。


他にも、アレですよ、学生時代は勉強ばっかりしてて女の子と全然話も出来なくて童貞だったのに、社会人デビューしたらいきなり名刺モテしちゃって今じゃ合コンお持ち帰りですよ、みたいなのとか。
まぁだいたいそういう男は、同じ社内の女子には
「なんでアイツがお持ち帰れるの?(お前ら所属に釣られすぎ)」
とすごい冷たい目で見られてたりするんですけど。


閑話休題


けど、おろちょんさんの記事を読んで
「そうだよなぁ。これって「美」じゃなければ「死」って価値観の話なんだよな。」
って改めて気付くわけです。


アンデルセンの物語にはこの価値観が色濃く通底してる。
「親指姫」にしたって親指サイズというハンデを背負ってて、それゆえ(これまた)醜いガマガエルのオヤジにやられそうになったり。
私が愛してやまない悲劇的お話である「人魚姫」に至っては、足が不自由というハンディキャップを背負っているが故に王子にもてあそばれて、挙句の果てには自殺して海の泡となってしまう。


アンデルセン童話の世界ってのは
「女は美しければ玉の輿に乗って幸せになれる」
っていうのがセオリーで
「ブサイクは不幸」
から始まる演繹ストーリーなのです。


でもなんかそれって結構不思議ですよね。
アンデルセンの時代は今のようにメディアによる洗脳的なの美の標準化は進んでなかったのですから、何をもって美しいとするかは個人の基準に拠るところが大きかったろうし、そもそも顔より家柄とかで結婚してましたよね。
何でそこまで美醜にこだわったんだろうなって思って、Wikipediaを読むと答えがありました。


アンデルセンが70歳で亡くなった時は、フレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並ぶ騒ぎになるくらい世界中の人々に愛されていたにもかかわらず、彼の恋は常に失恋の連続だった。その要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったこと、他にもラブレター代わりに自分の生い立ちから、童話作家としてデビューした事、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を送るという変な癖があったことを指摘する人もいる。


要出典、って感じですけど、写真を見る限りそういう部分も無きにしもあらずだったのかもなって感じですね。
もっとも彼が非モテだったのは多分前半の「容姿の醜さ」よりも後半の「人間力が低かった」部分にあると思いますけど。
それを彼はおそらく偏執的な自己憐憫で、全て「容姿の醜さ」に理由付けしてたのでしょう。
明らかに認知療法が必要です。


でもね、でもね、そういう外的な要因に全理由を求めたくなる気持ちってすごくわかるんですよね。
だっていい年して自分の内面を否定されるのって、多分外見を否定されるより辛いじゃないですか。
内面って自分の全責任によるものな訳ですから。
自分のこれまでの全人生、生き様の集約ですよ。
でも外見なら親を責めれば済む話ですからね。
(40過ぎたら男は自分の顔に責任持て、とか言いますけどね。まぁそれもあながち間違ってはないと思うけど。)
やっぱり人間、不幸は誰かのせいにしたい訳です。
よくいますよねぇ、買ったら「オレの銘柄選択効果」、負けたら「マーケットが間違ってる」とか言う人。
で、誰もがクチを揃えてそう言えば、そのうちそれが真実のようになっていきます。
そうして益々外見はモテの、いや、幸福な人生への、唯一絶対の要素になっていくのですね・・・。



そしておろちょんさんは
「ブサイクが辛ければ死んだらいい(という選択肢もあると思えば生きていける)」
という結論を導いてます。
まぁ確かにその通りではあります。


・・・その通りなんだけど、でも本当に自殺の自由なんてあるの?
というのが今日の2つめの話題。


私もババアになっても独りで寂しさに耐えかねるようなら死ねばいいや(だから地球温暖化少子化も年金もどーでもいい)って常日頃思ってますけど、そういう時ハっと思うのは
「でも年老いた親を残して死ねない・・・」
という重た〜い現実です。
私の親なんて、子供が生き甲斐の全てみたいな人です。
別に子供に介護を期待してるとかじゃなくてね、子供は自分そのものなんですね、彼女にとっては。
私は親になった経験が無いのでわからないですけど、親という立場の人は多かれ少なかれその感覚は分かるのではないでしょうか。


だから私的には親となったおろちょんさんが、こういう記事を書かれたことは意外でしたし、強いなぁと思いましたね。
自分の子供が「死ぬより辛い」と言うならば、死んで幸福になる道を選んでもいいよ、って言えるのは、親としてものすごい愛情だと思う。
私がもし親だったら、多分「頼む、私の為にどんなに苦しくても生きて!」ってすがりつきそうです。
私は自分の親に「死ぬ」なんてことは一度たりとも口にしたことは無いから彼女がどう答えるかはわからないけど、私自身にとって、今までの彼女の全愛情に対して「自ら死ぬ」という形の仇を返すのは、死ぬよりもっと勇気がいる。
それなら人生の全ての辛酸を修行だと思い、地下道で毛布にくるまってやり過ごす方がまだマシなのでは、いやその選択しか無いのでは?と思う訳です。


という訳で、親が生きている限り、残念ながら私には「自殺」という自由はないのです。


親が死んで初めて私は本当の意味で「自由」になるのだなぁと思ったりします。
けど繋がれた紐を切られた風船が、空高く上っていくように、自由とはこの世界に私を繋ぎとめるものが無くなるということで、そうなったら・・・うーん、どうするんでしょうね、私。
日頃から、親がいなくて、かつ、子供もいないけど、前向きに生きてる人を見ると、「なんて心の強い人なのだろう」と尊敬してしまいます。


以上、アンデルセンに負けず劣らずの自己憐憫記事でした。
皆様におかれましては楽しいGWをお過ごしくださいませ。